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最高裁判所第一小法廷 昭和54年(行ツ)20号 判決

上告人 亡木村良吉訴訟承継人 木村國造 ほか一名

被上告人 千葉東税務署長

訴訟代理人 古川悌二

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人北光二、同高橋勲、同鶴見祐策の上告理由第一について

所論のうち憲法一三条、三〇条、八四条、三一条違反をいう点は、所得税法(昭和四〇年法律第三三号による改正前のもの。以下「法」という。)六三条の規定は、質問検査権行使の要件及びその対象並びに方法等につき明確な基準を設けていないため、税務職員が恣意的にその権限を発動し、その結果私生活の自由、平穏を追求する国民の基本的権利が侵害される点において憲法一三条に違反し、国民がいかなる場合に国の租税権力の行使を受けるかが十分予測できる程度に明らかにされていない点において憲法三〇条、八四条に違反し、刑罰を課するための犯罪構成要件として意味内容が不明確である点において憲法三一条に違反する、というのである。

しかしながら、所得税の終局的な賦課徴収に至る過程においては、更正、決定の場合のみでなく、申請、申告等に対する許否の処分のほか、税務署その他の税務官署による一定の処分のざれるべきことが法令上規定され、そのための事実認定と判断が要求される事項があり、これらの事項については、その認定判断に必要な範囲内で職権による調査が行われることは法の当然に許容するところと解すべきものであるところ、法六三条の規定は、所得税について調査の権限を有する収税官吏において、当該調査の目的、調査すべき事項、申請、申告の体裁内容、帳簿等の記入保存状況、相手方の事業の形態等諸般の具体的事実にかんがみ、客観的な必要性があると判断される場合には、前記職権調査の一方法として、同条各号規定の者に対し質問し、又はその事業に関する帳簿、書類その他当該調査事項に関連性を有する物件の検査を行う権限を認めた趣旨であつて、この場合の質問検査の範囲、程度、時期、場所等実定法上特段の定めのない実施の細目については、右にいう質問検査の必要があり、かつ、右必要と相手方の私的利益との衡量において社会通念上相当な限度にとどまるかぎり、これを権限ある収税官吏の合理的な選択に委ねたものと解するのが相当である。そして、この場合、実施の日時場所の事前通知、調査の理由及び必要性の個別的、具体的な告知などは、質問検査を行ううえの法律上一律の要件とされているものではない。また、同条一号にいう「納税義務者」とは、既に法定の課税要件が充たされて客観的に所得税の納税義務が成立し、いまだ最終的に適正な税額の納付を終了していない者のほか、当該課税年が開始して課税の基礎となるべき収入の発生があり、これによつて将来終局的に納税義務を負担するに至るべき者をもいい、「納税義務があると認められる者」とは、権限ある収税官吏の判断によつて、右の意味での納税義務がある者に該当すると合理的に推認される者をいうものと解するのが相当である(以上につき最高裁昭和四五年(あ)第二三三九号同四八年七月一〇日第三小法廷決定・刑集二七巻七号一二〇五頁参照。なお、法六三条の規定は、現行所得税法二三四条の規定と若干異なるところはあるが、その趣旨は全く同じであるとみるべきであるから、現行所得税法二三四条の規定の趣旨について右第三小法廷決定の述べるところは、そのまま法六三条の規定の趣旨についても妥当するものといつてよい。)。

右のように、法六三条の規定は、質問検査権を行使しうべき場合につき、具体的かつ客観的な必要性のあることを要件としており、質問検査の範囲、程度、時期、場所等、権限ある収税官吏の合理的な選択に委ねられていると解される実施の細目についても、質問検査の必要と相手方の私的利益との衡量において社会通念上相当な限度内という制限を課して客観的にその範囲を画定しているものであり、また、質問検査の対象についてもなんら明確を欠くものではないから、所論違憲の主張は、いずれもその前提を欠く。

所論のうち憲法三五条、三八条違反をいう点は、法六三条に規定する検査は、あらかじめ裁判官の発する令状によることをその一般的要件としないからといつて、これを憲法三五条の法意に反するものということはできず、また、法六三条の規定そのものが憲法三八条一項にいう「自己に不利益な供述」を強要するものということができないことは、最高裁昭和四四年(あ)第七三四号同四七年一一月二二日大法廷判決(刑集二六巻九号五五四頁)の判示するとおりであるから、採用することができない。

同第二について

法六三条にいう「納税義務者」及び「納税義務があると認められる者」の意義、質問検査権行使の要件、理由開示の要否等同条の規定の趣旨については、さきに述べたとおりである。これと同旨の見解に立ち、原審の確定した事実関係のもとにおいて本件質問検査権の行使に違法はないとした原審の判断は、正当であつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

同第三について

原審は、本件各更正処分の適否を判断するに当たつて、右の各処分によつて認定された課税標準又は税額が客観的に正当な数額を超えているか否かという点だけでなく、本件質問検査権の行使に違法があつたか否かの点についても審究し、結局右違法はなかつたと判断しているのであつて、右判断は、正当として是認することができる。論旨は、原審の結論に影響を及ぼさない点につき原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

同第四について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 谷口正孝 藤崎萬里 中村治朗 和田誠一)

上告理由

第一憲法違反、法令違背

一 原判決の憲法一三条、三〇条、三一条及び八四条に関する判示について

(一) 原判決は、上告人の主張に対し、最高裁昭和四八年七月一〇日第三小法廷決定を引用して、「規定が不明確であるとか、あるいは質問検査権行使についての基準が不明確なために、その行使が税務職員の恣意に委ねられていることを前提とする被控訴人の前記憲法違反についての主張は採用することができない」としている。

しかしながら、右最高裁決定は、刑事々件の事案について、現行所得税法の規定についての判断であつて、これを本件の旧所得税法(以下単に法または旧法という)にそのまま先例として引用するのは、相当ではない。

旧法についての判例としては、刑事々件に関するものではあるが、憲法三五条、三八条に関し、原判決も引用する最高裁昭和四七年十一月二二日大法廷判決がある。これによれば、旧法六三条の「必要あるとき」とか「納税義務者」等、規定の意義が不明確であるから、憲法三一条に違反する旨の主張については、「それが本件に適用される場合に、その内容になんら不明確な点は存しない」として、規定自体の不明確性につき直接の判断は避けていた。「納税義務者」についていうならば、旧法一条に「この法律の施行地に住所を有し、又は一年以上居所を有する個人は、この法律により、所得税を納める義務がある」(一項)等の規定(現行法では二条三号、五条に相当する)があるが、申告納税方式のもとにおいて、質問検査の対象とされるべき納税義務者の意義をどのように解すべきか、明確でないところが論点とされていたのであるから、旧法に関し、この点についての最高裁の判例は刑事々件においても、未だ存在しないといわねばならない。

(二) ところで、法六三条一項は、「収税官吏は、所得税に関する調査について必要があるときは、左に掲げる者に質問し、又はその者の事業に関する帳簿書類その他の物件を検査することができる」と規定し、「納税義務者、納税義務があると認められる者」又は、確定損失申告者その他を掲げている。

この質問検査権の行使が、国税犯則取締法第二条の臨検、捜索、差押処分等とは異なり、強制力を伴うものではなく相手方の任意の同意ないしは協力を前提として為し得るところの、いわゆる任意調査であるが、適法な質問に答弁せず又は検査を拒む等の行為をした者に対しては、旧法七〇条一〇号(法二四二条八号以下同じ)に一年以下の懲役、又は二〇万円以下の罰金の制裁を定めることによつて、その実効性が担保されている。

そして通常、質問検査の相手方とされる納税者等は、そのために本来専念すべき営業活動を停止しなければならず、貴重な営業活動の時間をさかれ、あるいは私生活の平穏を害される不利益をこうむる。しかも、質問検査に応じない場合には、刑事制裁が定められているために少なからぬ心理的圧迫負担をこうむるのである。

結局、この制裁の威嚇によつて税務職員の質問検査に服することになるが、逆にいえば当該収税官吏の納税者等に対してふるう権力は、事実上絶大なものとならざるを得ないのである。

原判決は、「質問検査の範囲、程度、時期、場所等実定法上特段の定めのない実施の細目については」「質問検査の必要があり、かつこれと被調査者の私的利益との衡量において社会通念上、相当である限度にとどまるかぎり、税務職員の合理的な選択に委ねられている」から、規定の意義や行使の基準は不明確でないとの見解のようであるが、「質問検査の必要」といつても、その内容や程度は具体的な判断基準があるわけではなく、従つて「被調査者の私的利益との衡量」も現実には不可能なのであつて、税務職員の恣意を制約する原理として機能すべくもないのである。しかも、「必要」性に関しては、原判決は、一方で「調査の理由及び必要性を個別的、具体的に告知することは、質問検査をするための法律上一律の要件ではない」と解しており、その必要性は告知によつて客観化されることなく、税務職員の内心にとどまることを許容されているのであるから、被調査者において窺い知る手だてもないのであつて、結局のところ原判決のいうところは、単なる言葉の上だけの観念論にすぎず、実際には質問検査権を税務職員の意のままに発動することを許し、その行使の時期、方法、範囲、態様についても、当該職員の完全な裁量にゆだねる何らの制約もなしに放置するものにほかならないのである。

このように考えるならば、質問検査権を根拠とする税務職員において前記のような現に強大な権力を国民の上に行使している事実に照らし、旧法六三条は、国民の基本的人権の保障をあやうくするものであることは明らかであり、その観点から憲法上の評価を免れないのである。

国民主権を基調とし、基本的人権尊重を原理とする憲法の下で、国家権力が国民に対して確たる規準もなく、制約を受けることなく行使されることを許容する法規が成立ち得ないことはいうまでもない。

(三) 憲法一三条は、すべての国民が個人として尊重され、国民の生命、自由および幸福追求に対する権利については、国政の上で最大の尊重を要すると規定している。従つて、私生活の平穏を侵害する危険を本質的に内在する権力、例えば警察権力の行使については警察官職務執行法一条、二条等から明らかなように厳格な規準が設けられている。

しかるに租税法上の質問検査権については、この警職法の規定の如き明文の制約がないところから、税務職員の恣意の下に濫用され、私生活の自由、平穏を追求する国民の基本的権利を浸害する余地を残すものとならざるを得ないのである。

従つて、その権限の行使について罰則の威嚇を伴ないながら、何の制約も明記しない旧法六三条は、憲法の根本原理に反し、憲法一三条に違反するものである。

(四) また憲法三〇条は「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」八四条は「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」と規定しているが、これがいずれも、いわゆる「租税法律主義」の原則を明らかにしたものであることはいうまでもない。従つて租税の種類、根拠のみならず納税義務者、課税物件、課税標準および税率のすべてが、法律によつて明確に定められねばならないのは当然である。「租税法律主義」とは、単に形式上法律に条文上の根拠があれば足りるというものではなく、国民がいかなる場合に国の租税権力の行使を受けるかを十分予測し得る程度に明確な形で国民の前に示されていなければならない。質問検査権の行使についても同様であつて、とりわけ六三条は、納税者その他所定の者がこれに応じなかつた場合には、刑罰の制裁を科すのであるから、半面において犯罪構成要件としての性格をも有するのであつて、「罪刑法定主義」を定める憲法三一条とのかかわりも必然的に生じてこざるを得ない。憲法三一条を刑罰権の発動に限定せず、広く国家権力の行使の部面における適正手続の保障と解する立場に立つならば、そのいみにおいても同条の制約を免れないのである。

そうだとすると、「納税義務者」等や「必要あるとき」などの概念の不明確について先に指摘したとおりであるから、税務職員による権限行使の明確な規準を明文に有しない旧法六三条の質問検査権規定は、結局憲法のこれらの条項に反し、違憲とされねばならない。

二 原判決の憲法三五条、三八条に関する判示について

(一) 原判決は、この点に関し、最高裁昭和四七年十一月二二日大法廷判決を引用して、上告人の主張をしりぞけている。しかしながら、旧法六三条が、質問検査権行使の態様として税務職員が納税者の住居に立入つたり納税者の所有する物件を自己の支配下におき検査する権限を容認し、これに従わない納税者に対しては刑罰を科することによつて、事実上右の権限に服することを強制しているものにほかならないから、いわゆる令状主義との矛盾は否定できないところである。憲法三五条は、国民の住居不可浸、捜索押収を受けることのない権利を基本的人権として保障し、国家権力は裁判官の発する許可令状がない限り、国民の住居に立入つたり、国民が所持する書類、所持品について捜索押収することを許さない。この基本的人権は、犯罪の捜査等の刑事手続において、捜査官憲に対する関係においてのみ保障されるべきものと限定的に解する必要のないことは、原判決引用の大法廷判決が認めるところである。

ところで、刑事手続上の「捜索押収」と、これら租税法上現実に行なわれている「検査」とを対比するならば、「検査」における国民の権利侵害の方がより広範であつて、むしろこれの規制が強く要請されなければならないのである。刑事手続における「捜索押収」では裁判官が予め発した令状の提示を要するが、裁判官は、制度上、行政権力から独立した立場で、基本的人権を擁護すべき職責を有し、そのために身分を保障される裁判官が捜査官憲とは独自の立場で自己の判断のみに基いて令状の発布を行なうのである。このような裁判官の関与によつて、権力の濫用を規制し、国民の人権を擁護する役割が「制度上」保障されている。ところが租税法上の「検査」には、かかる司法的抑制は全くなく、人権擁護の明確な制度的保障がないのである。かえつて前述の原判決の見解に従えば、執行者である税務職員は「検査」に着手するとその場の判断、裁量によつて、「検査」の範囲をいくらでも拡大することが可能である。「捜索」「押収」令状には一応建前としては、予め目的物は特定され、時間も限定されており、これを受ける国民の側は単にこれを受忍する不作為を義務づけられるにすぎないが、検査にあつては、目的物は「その他の物件」ということで何ら特定されず、時間的、時刻的にも制約の規定がない。しかも検査を受ける側は、帳簿の呈示など検査に協力する作為をも要求されるのである。

国民にとつて犯罪捜査の対象とされることは、異例かつ稀少の事態ということができるが、納税義務ある国民である以上、税務調査を受けることが必然であるとの考え方に立てば、日常的普遍的であつて、そのいみからも基本的人権侵害の蓋然性は極めて高いことにならざるを得ないのである。このように考えると、司法権の抑制もなく、その権限に国民の人権擁護のための明確な制約が設けられていない検査権に関する規定が憲法三五条の立場に合致し得ないこと明白である。

(二) 次に「質問」についてみると、税務職員の調査がもともと更正等を目的とするものであり、当該納税者の申告を否認する方向で行使されるのであるから、このための質問に対する答弁は、一般に納税者にとつて不利益な内容であることは容易に推測される。従つて、罰則の威嚇を伴う質問権を規定するところの同条項が、不利益供述強制の禁止を定める憲法三八条一項と実質的に相容れないことは明らかである。なお、憲法三八条が刑事手続にのみ適用されると解するべき理由のないことは、憲法三五条について述べたのと同様である。

三 以上のような違憲性の評価を免れるためには、旧法六三条の要件を厳格に解することが必要であるが、原判決の判示するところによれば、結局は、実施の細目を当該税務職員の裁量にゆだね、質問検査の必要についても、何ら客観性の担保もなく、国民の権利を不当に侵害されることのないような制約原理として機能しない内容のものであるから、到底、この要請にこたえうるものではない。

かつて、最高裁(昭和四四年一二月二四日)大法廷判決は、憲法一三条の保障の観点から犯罪捜査のため、個人の容ぼうを写真撮影することの許容される限界が問題となつた事件について「警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは憲法一三条の趣旨に反し、許されない」とし、これが許容される限度ないし要件について、〈1〉犯罪が行なわれ、もしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、〈2〉しかも証拠保全の必要性および緊急性があり、かつ、〈3〉その撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときの三条件を示し、これを同時に全部みたしてはじめて正当とされる旨、判示したことがある。

質問検査は、必然的に営業の秘密、個人の私生活上の自由の全部に属する領域に立入らざるを得ない。それは写真撮影の比ではない。従つて、質問検査権規定の違憲性を否定するのであれば、その行使にも大法廷判決が写真撮影に示した条件に比すべき、あるいはそれ以上に厳格な具体的な要件が解釈上求められるべきである。

四 以上のとおり、原判決は違憲の法規を合憲としたために、憲法に違背し、ないしは憲法の解釈に明らかな誤りがあり、破毀されるべきである。また旧法六三条の規定自体が合憲とされるならば、本件について税務調査を適法とした原判決は、法の解釈を誤つたものにほかならず、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背があるので、同じく破毀を免れない。

第二原判決は、質問検査権の行使に関する旧所得税法第六三条(現行法二三四条)の解釈につき重大な誤りをおかしている。判決に影響をおよぼすこと明らかな法令違背である。

一 原判決は質問検査権の行使の対象者および要件について、つぎのように判断した。

まず、質問検査権の行使の前提としての「対象者」に関し、「同条一号にいう『納税義務者』とは、既に法定の課税要件が充たされて客観的に所得税の納税義務が成立し、いまだ最終的に適正な税額の納付を終了していない者のほか、当該課税年が開始して課税の基礎となるべき収入の発生があり、これによつて将来終局的に納税義務を負担するにいたるべき者をもいい、『納税義務があると認められる者』とは、税務職員の判断によつて、右の意味での納税義務がある者に該当すると合理的に推認される者をいうものと解するのが相当である」とのべている。しかし、法が自主申告制度を採用しており、この点の解釈に際しては、自主申告制度の制度目的-なかんずく納税者の権利としての「民主的な制度」としての意義-に即して正しく解釈されなければならない。

二 同条は質問検査権の対象として「納税義務者」「納税義務があると認められる者」その他を定めている。

(一) いうまでもなく所得税の納税義務は、暦年終了のとき納税義務が成立し、確定申告期限内に確定申告することによつてこの納税義務の内容である税額が確定するのが原則である(旧法二六条)。国民(納税者)の自主的な意思によつて納付すべき税額を確定するのが、申告納税方式の建前である。国(税務署長)が、申告によらずに税額を確定するのは、例外であつて、申告のなかつた場合あるいは申告書の内容に誤りがあつて国で調査したところと異なる場合に限られ、申告のない場合は、決定、申告のある場合は更正によつて額が確定することになる(四四条)。

(二) したがつて旧法六三条の「納税義務者」「納税義務があると認められる者」にいう「納税義務」とは、同法一条の「住所」を有し又は「居所」を有する個人は「所得税を納める義務がある」と規定されているような極めて抽象的、一般的なものではなく、特定の年度分における「納税義務」であることはあきらかである。それでは、六三条のまず「納税義務者」とは何かについてみると、この「納税義務」とは、暦年終了とともに所得に相応して観念的に成立するとされるところの義務ではないことも多言を要しない。なぜならば、右のような観念的に成立するのみで、未だ具体的に税額が確定されていない程度の抽象的義務であると解するならば、次の「納税義務があると認められる者」との区別がなくなり、二つの概念を併立させるいみが全く失なわれてしまうからである。従つて規定の仕方からみると、これは、税額が確定した具体的な納税義務と解さざるを得ない。

ところが、このような見解に立つならば、具体的納税義務とは、暦年終了の際に成立するいわゆる抽象的納税義務の内容であるところの申告の義務が果されてそれによつて確定した税額を納付するべき義務にほかならないわけであるが、納税者が自己の計算に基いて申告し、その申告した税額を納付したならば義務は完全に履行されたことになり、その確定した限りにおいて納税義務は消滅することになる。すなわち、申告した税額の納付を済ませた者は、質問検査権の対象となるべき「納税義務者」にあたらないのである。

又、確定申告のみで、まだその税額を納付していない者であっても、その場合の「納税義務」は、納付義務にほかならないのであるから、それのみでは所得税法による課税標準や税額確定のための質問検査権の対象となり得ないというべきである。

(三) 次に「納税義務があると認められる者」とは何かの問題は、以上、「納税義務者」について述べてきたところから、おのずから明らかといわねばならない。申告納税方式の下においては、納税義務の成立と確定の手続が区別され、確定をまつてはじめて納税義務が具体化するのであるから、ここにいう「納税義務があると認められる者」とは、抽象的な形で納税義務が成立していると認められる者で、未だ課税標準および税額が確定していない場合であることはいうまでもない。従つて所得があるのに申告のない者および、申告はしたが申告以外にも所得があり、決定あるいは更正によつて新たに税額を確定する必要がある者が、これにあたるわけである。

ところで申告納税方式の建前をとる以上、納税者の申告がまず尊重されるべきは当然であるから、更正等の必要がある場合、すなわち「納税義務があると認められる者」というためには、単に納税義務の存在の可能性の程度では足りないのであつて、具体的な根拠により、納税義務の存在についての蓋然性が認められる場合でなければならない。換言すれば、納税者の申告によつて税額を確定すべき原則をくつがえして、国が例外的な確定方式である更正、決定を行なうために質問検査権を行使するに際しては、その前提としてそれ相当の合理的な根拠ないしは必要性がなければならないわけである。そのような要件が備わることによつてはじめて「納税義務があると認められる者」と認定され、その者を対象とする質問検査権の行使が可能となるのである。単に漠然とした疑念や憶測のみで、納税者を対象とし、網をかぶせるような質問を行ない、あるいは検査に応ずることを要求することが、税務署員によつて通常行なわれているが、いずれも許されない。甚しきに至つては、申告が間違つているかどうかは調査してみなければわからない、すなわち、質問検査権を行使してからその対象者が「納税義務があると認められる者」にあたるかどうかが判明するかのような粗雑な理解が税務署員の中に見出されるが、まことに驚くべきことである。

原判決は、「納税義務者」についての解釈をゆるく解釈した結果、「納税義務があると認められる者」の範囲もまた不当に広げられる結果となつているのである。

三 質問検査権行使の法的限界について

(一) 原判決は質問検査権行使の要件に関し、「旧所得税法第六三条の規定は、税務職員において、調査の目的、調査すべき事項、申告の体裁内容、帳簿等の記入保存状況、被調査者の事業の形態等諸般の具体的事情にかんがみ、客観的な必要性があると判断される場合には、前記職権調査の一方法として、同条各号に掲げる者に対し質問し、またはその事業に関する帳簿、書類その他当該調査事項に関連性を有する物件の検査を行なう権限を認めた趣旨であつて、この場合の質問検査の範囲、程度、時期、場所等実定法上特段の定めのない実施の細目については、右にいう質問検査の必要があり、かつ、これと被調査者の私的利益との衡量において社会通念上相当である限度にとどまるかぎり、税務職員の合理的な選択に委ねられている」と判示した。

(二) しかし、ここにいわゆる調査の「必要性」についての内容が極めて不明確であるとともに、一般的、抽象的であり、しかも、この「必要性」と「被調査者の私的利益との衡量において社会通念上相当である限度にとどまる限り、税務職員の合理的選択に委ねられる」というにいたつては、二重にそのわくがゆるめられることになり、結果的には、質問検査の具体的な行使にあたる税務職員の恣意的な判断とそれにもとづく質問検査権の行使につながつていくことになつてしまうのである。公権力の行使としての性格をもつ、質問検査権の限界は、かかる一時的なものではなく憲法と基本的人権の保障、申告納税制度の基本目的などの観点から具体的かつ明確に限界づけられなければならない。これは、法文上明確さを欠いている場合にこのことは一層重要である。

(三) 質問検査権行使の法的限界については次のとおり解釈さるべきである。

質問検査権は確定申告がないか、あるいは申告が適正でない客観的合理的疑いのある場合であつて、それによらなければ調査を全うしえないという高度の必要性がある場合においてのみ行使することが許されるのであり、税務当局の恣意的な判断によつてこれが行使されてはならない。

すなわち、前述したとおり申告納税制度のもとでは、納付すべき税額は、納税者の自主申告によつて確定するのが原則であり、税務署長による更正・決定は第二次的・補完的な地位しか与えられていないからである。

旧法六三条(法二三四条)は「所得税に関する調査について必要があるときは」調査することができると規定するが、質問検査権の行使はそれ自体として納税者の営業や生活に対して影響を及ぼすものであり、任意調査であつても調査に応じないときは処罰の対象となる(この意味では純粋な任意とは明らかに異なる)ものであるから、ここでいう「必要があるとき」という趣旨は前述の如く「申告がないか、あるいは申告が適正でない客観的合理的な疑いのある場合であつて、間接強制を伴なう質問検査権を行使しなければ当該納税者の調査が全うできない程度の高度の必要性がある場合」と解すべきである。

被上告人は控訴審において「質問検査権の行使の対象は過少申告の具体的嫌疑のある者または過少申告の可能性が高いと認められる者に限られるものではない」「『必要性』の判断は課税庁の現実に即した合理的判断に委ねられている」と主張していたが、これがいかに暴論であるかは論外としても、原判決の立場からしても納税者の確定申告を最大限尊重するという自主申告制度の趣旨を踏みにじり、かつ現実にこの質問検査権の行使が納税者の基本的人権を侵害する危険を常に有し、さらに税務当局の恣意的判断に基づく不当な税務調査が横行している現実を容認しあるいはそれを合法化する結果となることは明らかである。本件に関していえば、第一審において質問検査権の行使は前述のような合理的必要性がなければ行使できないとの上告人の主張に対して「明文上、このような規定はない」と述べるのみで、上告人の右「合理的理由」についての求釈明に対して一貫して応じなかつた。

しかるに控訴審に至り、その「理由」らしきものを述べた。すなわち、昭和三八年度分については(1)確定申告書に収入金額および必要経費の記載がなく、収支計算書等の添付がないので法に基づき正しく算出されたものか確認するため、(2)被控訴人の妻が障害者に該当するかどうかを確認するため、(3)家屋増築の資金源について検討するため又、昭和三九年度分については、(1)昭和三八年度分の(1)と同じ、(2)自動車の譲渡の事実を確認するためというのが、質問検査権の行使を必要とする「理由」のようである。しかし、これらの「理由」は質問検査権の行使を必要とする合理的な理由とはいえない。ところが原判決は、かかる被上告人の主張をみとめ、調査の必要性の存在を認定した。

そこで第一点についてであるが、確定申告書に収入金額、必要経費を記入しない白色納税者は、かなりの数にのぼるのが通常であつて、とくに昭和三九年、四〇年当時には、三分の一から半数に近かつたのが実情である。収支計算書に至つてはなおさらのことといわねばならない。中塚証人も控訴審において、収入金額、必要経費が書かれていないのは、めずらしいことではないと認め、結局は「所得金額しか書いてないから調査するということではなくて、これは私の想像ですが、やはり増築の資金なりいろいろ重なり合つて選定されるという総括主義でいくものだと思います」と述べてこれらの記入ないしは添付のないことが直ちに調査対象に選定される理由となり得ないことを認めているのである。その余の家屋増築資金と障害者控除については、奇妙なことに、中塚係官は、何ら必要かつ適切な調査を具体的に行なつた形跡はない。障害者控除については「検討の段階だつたので」最後まで尋ねなかつたというのであり、「調査選定の重要度から考えてみてのちほどになるだろう」と判断したというのである。また増築費用については同証人は、「良吉は答弁する必要はない」と述べたというが、具体的にはどういうきき方をしたのかという問に対しては、「どこの大工さんに頼みましたか」ときいたというのであり、それ以上進行するのはマイナスと考えて引き下つたと説明している。税務署としては、請負人から金額までの増築の資料が入手されたからこそ申告との対比において調査の必要が生じたというのが、その主張の筋道であるべきはずなのに、この中塚証人によれば工事請負人を聞き出そうとしているにすぎず、到底まともな調査とは思われない。肝心の増築部分も見ようともしないのである。

これら中塚係官の調査における実態からみるならば、本訴訟において被上告人が主張する調査理由なるものは、あとからとつてつけた口実にほかならず、本件の上告人に対する調査は、「具体的事情にかんがみ、客観的な必要性があると判断される場合」にあたらないことは、明白というべきである。まず調査ないしは質問検査の客観的必要性の点において要件を充足しておらず、従つて、昭和三八年分について昭和三九年分とあわせて、昭和四〇年の段階に至り、石躍、宮永両係官が行なつた「臨店調査」もまた要件を欠き違法とされねばならないのである。

(四) 質問検査権の行使には「合理的必要性」がなければならないこと前述したとおりであるが、このことは当然その範囲ないし調査内容に一定の限界があることの裏づけでもある。

上告人は、本件において、この点に関する違法性をうらづけるものとして

(イ) まず質問検査の範囲は「事業に関する帳簿書類その他の物件」に限られ、事業に関係のない帳簿や私物は対象とならない。それ故本件において問題となつている千葉民主商工会のハガキはその対象とならないことは云うまでもないということ。

(ロ) さらに質問検査の内容も「合理的疑い」を解明するに必要な最少限の事項に限られる。それ故、たとえば包括的に帳簿書類一切を見せることを要求し、包括的に得意先、仕入先全部の住所・氏名を告げることを要求したりすることが合理的に許されるものとは到底いいがたい。

本件においては、三八年度分についての調査においても、三九年度分についてもいずれも「帳簿や書類を見せて下さい」というのみで何ら特定をしていないのである。

また、控訴人が質問検査の「理由」として主張している点を明らかにするための質問も全くなされていない。このような「包括的な質問」あるいは「包括的な帳簿等の要求」には何ら応ずる義務はない、ということ。

(ハ) さらに質問検査権の行使など調査に際しては税務調査以外の目的をもつてなされてならないことは制度上当然であり(他目的調査の禁止)、本件において民商破壊の目的を有していたこと。などを主張していた。

ところが、原判決は、この質問検査権の範囲、調査内容の限界については、前記(イ)について国造の承諾を得て写しているとの判断をしたのみで(これは誤りであるが)その他については何ら具体的な判断を行つていない。この点においては原判決は理由を付さずあるいは理由に齟齬あることは明らかである。

(五) 質問検査権を行使するに際しては調査を必要とする合理的な理由を開示しなければならない。

質問検査権の行使は、前述したとおり、滞納処分のための調査や犯則事件の強制調査とは異なり、任意調査ではあるが、これに応じなければ重い刑事罰を課せられる危険性があり、さらには、まさに本件にみられるように、(合理的な理由に基いて質問検査に応じなかつたにもかかわらず)「拒否した」として推計課税方式への移行の口実に用い、ひいては、全く納税者の関知しないままに反面調査などが行われ、一方的な資料で更正決定という重大な不利益処分がなされることになりかねないのである。

それ故前述したように、質問検査権の行使は、「合理的必要性」がある場合にはじめてなしうるのであるが、これを納税者の側からみると合理的な理由があれば質問検査を拒否できることになり、そのために、刑罰を課せられたり、一方的な資料で更正処分を課せられたり等の不利益をうけることはないと解すべきものである。

従つて、質問検査に際し、それに当る税務署職員は、納税者に対し、その合理的必要性を告げる義務があり、また納税者はそれを問いただす権利があるものというべきである。

そうでなければ、質問検査には「合理的必要性」がなければならないとした理由が失なわれてしまうからである。

このように解してはじめて「税の徴収確保と被調査者の私的利益の保護との調和」(第一審判決)が保たれるといいうるのである。また、このことは、行政処分をなすに当つては、出来る限り、それを受ける主権者である国民の納得を得た上で行われるべきであるという国民主権の建前からもいいうることである。然るに本件においては、臨店した税務職員は質問検査の理由を告げることがなく上告人であり実質上の経営者であつた国造の理由開示の要求には答えなかつたばかりか、本訴訟を通じて一貫して、その必要性がないと主張しつづけているのである。

そして、原判決もまた、「同条に基づく質問検査を実施するための日時場所を事前に通知したり、調査の理由及び必要性を個別的、具体的に告知することは、質問検査をするための法律上の一律の要件ではないと解するのが相当である」とのべている。これは、前述の如き理由により明らかに法令の解釈に重大な誤りがあるといわなければならない。

以上の質問検査権に関する法令違背あるいは理由齟齬、理由不備は、推計課税の方法によりえないことを明確にうらづけるものであつて、判決に影響をおよぼすことが明らかである。

第三違法な質問検査権の行使と取消原因-訴訟物理論にも関連して

一 原判決は、本件訴訟の訴訟物に関して、「課税処分の取消訴訟の訴訟物は課税処分によつて認定された課税標準又は税額が客観的に正当とされる数額を超えているか否かということである」と判示したうえで、本件各更正処分によつて認定された課税標準又は税額がその後に収集された資料により客観的に正当とされる数額を超えていない以上、同処分は適法である」とのべている。しかし本件訴訟の訴訟物つまり審判の対象は、決して右の範囲に限定さるべきではないことは以下にのべるとおりである。しかも原判決は、その理由の三項(判決書理由二丁裏)において、上告人の主張の整理を行い「被控訴人(上告人)は課税処分の取消訴訟の訴訟物は客観的な課税標準又は税額等の数額ではなく、課税処分が適法な手続に依つてされたかどうかということであり」と要約したうえ、次に「これを本件各更正処分についていえば、推計による課税標準等が更正処分当時の資料によつて認定されうるか否かということであるところ……」といわゆる「適法手続」の意味内容を勝手に限定整理したうえ前段でのべた「訴訟物理論」にもとづいて上告人の主張を排斥している。しかし上告人がのべる適法手続は決して右の如きせまいものではない。

そこでまず、本件訴訟のいわゆる訴訟物-審判の対象は何かについてのべることにする。

国税通則法第二四条は「税務署長は……その調査したところと異なるときは、その調査により、当該申告書に係る課税標準又は税額等を更正する」と定めている。ここでいう調査とは適法な調査を意味することはいうまでもないところであるから、この職権調査の過程で具体的な質問検査権の行使が適法要件を欠き違法と評価される場合に、これに基づく更正等の課税処分も違法とされ取消されるべきことは当然である。このことは、税務署の恣意的な税務行政を抑制するという民主主義の原則からも当然のことでもある。このように考えなければ「例えば税務署が法を無視した違法な調査をし、また見込み課税をしておいて、あとから異議申立や審査請求さらに訴訟が提起された際に、反面調査などで数額をあわせ「いずれにしても、その範囲内でなされた本件更正処分は合法である」とされることになるからである。

次に、「適法手続」の範囲である。この手続は、原判決の整理するが如き限定的にとらえてはならない。更正処分は行政処分であり、そこには一連の手続がある。自主申告、質問検査(臨店調査、反面調査など)推計課税、更正処分等々、これらは、決してばらばらではなく、相互に連関するものである。

この一連の手続中で、重大な手続違背がある場合、それは単にその手続の一部に瑕疵があるというに止まらず、一連の手続を基礎とした更正処分そのものの瑕疵につながる場合があるのである。それ故、本件更正処分の取消訴訟においては、これらの更正処分にいたる一連の手続もまた、審判の対象となるのである。原判決は、以上の点で重大な誤りをおかしており、これは、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背といわねばならない。さらに、原判決は、その理由の七丁裏において、「仮に本件質問検査権の行使に際し、税務職員が社会通念上相当である限度を超えてこれを行なつたとしても、そのことから直ちに本件更正処分が違法であるということにはならないものと解すべきであるが、違法な質問検査のみに基づいて本件更正処分がされた場合には調査をしないで同処分をしたという問題が生ずる余地もありうる」とのべているが、何故に「税務職員が社会通念上相当である限度を超えて」質問検査を行つた場合、更正処分が違法にならないのかについての理由がなく、「直ちに」違法にならないとしても、違法となる場合がありうるのかについても理由が付されず、しかも違法質問検査のみに基づいて本件更正処分がされた場合とは調査をしないで同処分をしたという問題が生ずる余地もありうる」というが、例えば、「違法な質問検査のみに基づく」となりえない場合においても、その違法性が重大な場合(他の調査結果も更正処分の根拠に含まれていた場合など)には同様の問題が生ずるはずであるが、原判決はこの点について何ら理由を付していない。

結局、原判決の審判の対象-訴訟物-に関する部分は、理由を付さずあるいは理由に齟齬あるものといわざるをえないのである。

第四事実認定における理由齟齬その他

原判決には、事実の認定においても、以下に指摘するとおり理由齟齬、理由不備がある。

一 反面調査開始の理由に関する重大な理由齟齬

原判決は、「本件質問検査権の行使に際し被控訴人が主張するような違法な事実があつたか否かについて検討を加える」(理由…以下同じ…第七丁裏七行目以下)として事実認定を行ない、その結論として、「本件質問検査権の行使は、……被控訴人の自発的な協力を得てこれを行ない、その協力が得られなくなつた段階において取引先について反面調査をしているのであるから、本件質問検査権の行使にはなんらの違法がないものというべきであり、これが違法である旨の被控訴人の主張は理由がない」(第一五丁表一〇行目以下)と判示している。

すなわち、原判決は、反面調査実施の理由が、本件における重要な争点の一つであり、判決に影響を及ぼす問題点であると認識し、かつ説示しているのである。

ところが、この点についての原判決の事実認定はつぎのとおりである。

「たまたま石躍事務官が、国造の承諾を得て、店舗内に貼つてあつた千葉民商からの総会開催の案内状である葉書を写したところ、今関らがこれを口実に権限ある税務職員の調査に応じなかつたこと、被控訴人及び国造も今関らのいうがままになつていたものであること、税務職員は、被控訴人及び国造の態度から、被控訴人及び国造のみを調査していたのでは到底その所得金額を明確にすることができないと判断し、その取引先について反面調査を開始したものであることが推認され、右事実を覆すに足りる証拠はない」(第一四丁裏五行目以下)。

この部分で述べられている「被控訴人及び国造のみを調査していたのでは到底その所得金額を明確にすることができないと判断し、……反面調査を開始した」というのは、さきに掲げた「協力が得られなくなつた段階において……反面調査をしている」という判示と符合することが明らかである。

そして、この部分の記述によれば、「協力が得られなくなつた段階」とは、「今関らが(葉書を写したこと)を口実に……調査に応ぜず、被控訴人及び国造も今関らのいうがままになつていた」ときを指すこともまた明らかである。

ところで、原判決は、「第四回目(昭和四〇年九月四日)に……石躍事務官が……葉書を写した」(第一二丁裏二行目以下)といい、つづいて「第五回目(同月八日)には松崎係長、石躍、宮永両事務官が国造と面接したところ、今関らが待機していて前記葉書を写したことに対し激しく抗議をし」(第一三丁表八行目以下)と認定しているのであるから、いうところの「協力を得られなくなつた段階」とは、昭和四〇年九月八日である。しかるに、原判決の認定によれば、反面調査開始の時期は、同年八月二〇日である。

「石躍事務官らは、被控訴人の仕入れ状況を把握するため、同四〇年八月二〇日ころからその仕入先などについて反面調査を開始し、同月二十五日から二七日までの間は千葉信用金庫本店、同年九月一日国民金融公庫千葉支店、同月三日ころ専売公社千葉支局、その後その他の取引先を調査していた」(第一三丁裏九行目以下)。

なお、第三回目の臨店(八月一八日)においては、「当日は今関らも立会していたが、国造は「昭和三八年度分の資料は既に処分ずみであり、同三九年度分については今日調査を受けるとは思つていなかつたので準備していないから、四日程したら帳簿書類を揃えて連絡する。」と述べたので調査を延期した」(第一二丁表八行目以下)のであつて、「協力が得られなくなつた段階」には立ち至つていない。

以上要するに、原判決は、「九月八日における被控訴人及び国造の態度(第一四丁裏一〇行目)が非協力的であつたから、八月二〇日に反面調査を開始したのであり、そこにはなんらの違法がない」と言うのである。

おそらく、被上告人の主張を擁護しようとする意識が先行したあまりのことであろうが、これは単なる表示の誤まりや勘違いとは本質的に異なる問題である。冒頭にも指摘したとおり、事は原判決自身が重要な審判事項とした点に関するものである。

ともかく、余りにも粗雑というほかない理由齟齬であるばかりか、この部分の認定が異なつた場合、原判決は一体どのように判示するのであるか、全く見当もつかない。

まさに、原判決は、いうところの「調査をしない」場合(第七丁裏六行目)と同様に、「事実の認定をしなかつた」と言い得るほどの理由齟齬を犯したものである。

しかも、その内容の重要性に鑑みるならば、原判決は、この一個の理由齟齬のみによつても、直ちに破毀さるべきである。

二 理由不備

原判決の事実認定が粗雑、杜撰であることは、前項に指摘した理由齟齬に象徴的に現われているが、原判決には、このほかにも以下に掲げるとおり、決して軽視することのできない理由の不備がある。

(一) 乙第一〇号証を排斥した理由が全く不明である。

原判決は、「中塚五郎事務官は、……第一回目は午後一時三〇分ころ(被控訴人方を)訪れた」(第九丁表七行目)と認定している。

この認定が中塚五郎証言によるものであることは明白である。しかし、同人の作成した乙第一〇号証によれば、同人は「午前一〇時木村さんのお店に伺がつた」というのである。

この点に関する疑問は、原審準備書面においても指摘したが、煩をいとわず要点を再掲する。

木村国造の証言によれば、中塚事務官は「お昼にまたがつて二、三時間いた」(第一審第一六丁裏)、「昼近くに来て、私のところで店屋物を出して、午後三時頃に帰つた」(原審第一五丁表)、「私の方で提示したものを全部見て昼食をとつてからききもしないで店の方へ行つて……」(同右第一七丁表)と、午前中に臨店してかなり長時間調査している。なお、木村国造の第一審における証言は昭和四十四年、原審における証言は昭和五〇年である。ところが中塚事務官は昭和四十六年作成の乙第一〇号証において「午前一〇時」に臨店したと供述していながら、昭和五十一年の証言においては「午後一時三〇分頃」に臨店したと供述を変更した。

乙第一〇号証は、国造の原審における証言(「お昼にまたがつて二、三時間いた」)のあとに作成されている。そして、同人の証言は、国造の原審における証言(「店屋物を出して」)のあとになされた。

しかも中塚証人は、乙第一〇号証を事前に見て来たから被控訴人の件を詳しく証言できるのだと思う(第一回第七丁裏)と述べ、同時期に調査した他の案件については名前さえ忘れたと述べている(同前)。

木村証言が、第一、二審を通じて、臨店の時間にしても昼食のことにしても淡々として述べていること、乙第一〇号証が第一審における木村証言のあとに作られて臨店の時間については同証言と一致すること、そして、中塚証言が当審における木村証言(「店屋物を出して」)のあとになされ、しかも臨店の時間の記憶だけが奇妙にも甦つたとされていること等を見れば、臨店の時間についての中塚証言は前記木村証言に困惑した挙句の虚構であると断ぜざるを得ない(同人は「食肉屋という職業からみても午前中に調査することはない」(第二回第二丁表)と述べているが、石躍、宮永両係官が午前十一時に臨店している例がある(宮永証言第一回第一六丁表)。なお、臨店後十二年近くも経過し、担当した被調査者の名前すら一つも思い出せない同証人が本件の臨店の時間については乙第一〇号証の「誤まり」を「読みまして、すぐ気が付きました」(第二回第一九丁裏)というのである。

右のとおりであるが、対立関係にある者などの供述であれば、その一方を措信し難いとして排斥することは珍らしくないとしても(ただし、供述の微妙なくい違い等の場合には、一方を排斥する理由を説示するのが望ましいことはいうまでもない)、乙第一〇号証と中塚証言とは同一人の供述である。しかも、右に述べたように中塚証言は、通常の見識ある者が見れば、その信憑性を疑わざるを得ないものである。

しかるに原判決は、乙第一〇号証を蔽い隠すかの如くこれについて唯の一言も述べず、ひたすら中塚証言に全幅の信をおいて「事実認定」をした。

裁判のルールを平然と踏みにじつたものである。原判決の理由中に一貫して用いられているこのような手法は、裁判の公正さを疑わしめ、本件の事実認定を歪めたと疑わしめるものである。

重大な理由不備ありとして原判決を破毀されることを求める。

(二) 甲第一九号証を無視した理由もまた不明である。

原判決に前述のとおり、九月八日の臨店調査について、「今関らがこれ(葉書を写したこと)を口実に……調査に応じなかつたし、被控訴人らも今関らのいうがままになつていた」(第一四丁裏七行目以下)と認定した。

しかし、当日の状況に関する証拠にはつぎのようなものが存在する。

(証言)

「ここにいるのは民商の人か。立会いはできないですよということから始まつたわけです」(広瀬証言一七丁裏)。「石躍税務署員それから松崎係長はなぜか大分興奮してまして……私たちの質問にまともに答えようとしないばかりか……問答無用だ、水掛論だというような形で一度は席を立つた」(同右第一九丁表以下)。「松崎係長は…納税者に関することなら何でもできると」(同右第二〇丁裏)。「大変これは乱暴な言葉で税務署は調べようと思えば何だつてできるんだというようなことをはいて私たち大変びっくりしたんです」(同右第二一丁表)。

「時間つぶしてやつておられたんじや……困るから早く調査をしてもらいたい……と言つたんです。……ところが調査をしないで……理由は言えないんだ……調査はできないと言つて帰つて行つたわけです」(今関証言第三二丁表)。

「なんか「おい」とか「お前」とか言う言葉を使われてシヨツクを受けたような記憶があります。税務署員というのは恐いなという印象を受けたことも覚えております」(鈴木証言第四丁裏以下)。「調査にならないから帰ろうというような感じでお帰りになつたと思います」(同右第五丁裏)。「お前には答える必要がないとか、かなり激しい言葉をいただいたように覚えております」(同右第六丁表)。「険悪というのか、税務署の方の言葉が非常に高圧的だつたのを記憶しております」(同右第一五丁裏)。

「石躍さんのほうはかなりおこりましてごたごたした状態になつたわけなんです」(木村証言第一審第三〇丁表)。「松崎係長さんが税務調査させないのかということからこじれまして……理由だけ聞かせてくれればそれでいいじやないかとそういうことを言つたんですけれども……勝手にしやがれというような態度で帰つたことを覚えています」(同右第六二丁裏以下)。「税務署員の方が乱暴でした」(木村証言原審第一四丁表)

「ひどかつたのが松崎係長と石躍さんで……何か言うと怒られているようなかなり大きな声を出していました。それから石躍さんは「お前ら」という言葉を再々出していました」(同右第一四丁表以下)。

(甲第一九号証)

△松崎「この人たちは民商ですか」(二四五ページ)

△石躍「必要があるからね」木村「どんな必要がありますか」石躍「何か関係あるからね」(二四六ページ)

△松崎「民主商工会つて団体はね、調査に行くたびに立ち会つているから、民主商工会はどういうものか」(同右)

△松崎「どういう権限で貴方がたは立ち会うの」(同右)

△松崎「貴方がたはね、おい、貴方がたは何の権限で俺たちにそういうことを聞くの」(二四七ページ)

△民商「何の権限で民商の手紙を写したの」松崎「そんなこと木村さんと関係ないじやないの」(同右)

△石躍「あつちへ行きなさい」(二四九ページ)

△松崎「お前なんかに答える必要はないではないか」民商「納税者に向つてお前とは何です」松崎「お前ではないか」(二五〇ページ)

△松崎「どういう影響を受けたですか。これによつて」(同右)

△民商「貴方がたの調査とはどういうものか憲法や税法にもとづくものかどうかをハツキリさせてから、これは国民の権利ですから」石躍「じや帰りましよ。ハツキリしようがないのに、あくまで水掛論になるじやない」(二五一ページ)

△木村「悪かつた。間違つていて申し訳ないと言えばよいことですよ」石躍「悪いことはないよ」(同右)

△木村「ハガキを黙つて写したことは……ぬすみ聞きしたつてことと同じですよ」

松崎「結局、木村さんね、貴方がたを調査するとね、民商というのが立ち会つて、妨害とかいろいろ税理士法違反をおこなつている……民商がどういうものか私たちは知りたかつたんで」木村「それじや書く時にそう聞いて頂いたら、一番簡単でなかつたですか」(同右)

△松崎「私たちは身の危険を感じますから帰りますよ」民商「身の危険を感じるようなことが何かありますか。貴方がたに聞いているだけじやないですか」

△松崎「貴方がたはやるたびに税理士法違反をおこなうような行為をやる」木村「ちよつと待つて下さい。違反をやつているというが、どういうことですか」松崎「立ち会いをしているわけです」民商「立ち会いは第何条で違反になりますか」(中略)

松崎「じや税理士法違反にならないですか」(二五二ページ、二五三ページ)

△民商「有る資料はみんな見せているじやないですか。勿論暗記している点もありますよ」松崎「頭がいいからな」(二五四ページ)

△石躍「貴方、それで不服だつたら、あのう、そういう方法を取ればいいじやないですか。手続なり、何なりね」木村「手続きつて、何ですか」石躍「いまいつた通りです。それ以上のことは、今ここじやね何とも答えられませんね」(二五四ページ、二五五ページ)

△民商「所得税法二百三十四条では民商の会合通知のハガキは写せませんよ」松崎「そんなこと何回くりかえしても同じじやないの」民商「どうして」松崎「それ以上の説明はできないよ」(二五五ページ)

松崎「貴方がたは何で立ち会つているの」石躍「引のばすために……じやないの」

民商「民主商工会は、会員の利益を守る。このような……」松崎「……妨害するのが目的なの」(二五五ページ)

△松崎「税務調査においては団結権は認められてないですよ」(二五六ページ)

△松崎「それ以上のことは言えない。帰ろう」(同右)

以上みて来たとおり九月八日の状況は、第一審判決が認定したように、非は税務職員がわにあつたと見るのが正当であると考えざるを得ない。しかも、第一審判決当時、甲第一九号証は未だ提出されていなかつたのであつて、第一審判決は甲第一九号証なしでも右のように認定しているのであるから、甲第一九号証の存在は重視しなければならない。

まして、甲第一九号証は、早坂証言でも明らかなように、録音を筆記したものである。もし、このこと自体を疑うのであれば、その理由を説明しなければならないであろう。

しかるに原判決は、一方では乙第一〇号証を葬り去り、他方では甲第一九号証を黙殺した。まさに、既定の結論に符合させるため、恣いままに証拠を玩んだという印象を拭いがたいのである。

甲第一九号証排斥の理由を明らかにするためにも、原判決を破毀されるべきである。

(三) 石躍事務官が「反面調査をしている旨説明した」証拠はない。

原判決は、第四回目(昭和四〇年九月四日)の調査の際、「石躍事務官は同人に対し八月二〇日から取引先の反面調査をしている旨説明した」(第一二丁裏七行目)と認定している。

しかし、こう認定するに足りる証拠はない。原判決が拠りどころとしたものは、おそらく原審における石躍証言第二二丁裏九行目以下の左の件りであろうと思われる。

問 九月四日に反面調査をやつているということを木村さんには一言も説明しなかつた理由はなんですか。

答 それは説明しております。

問 協力してくれないから反面調査をやつているとか、だからこうしてくれとか、親切な説明の仕方があつたと思いますが、反面調査をしているということは木村さんには隠していたのですね。

答 隠すとかそういうわけでなくて、反面調査は別に了解をとらなくてもできると判断しておりましたからむしろ反対証拠の多い中で、この問答から「説明をした」と認定できるのか、第一問に対する答と第二問に対する答との矛盾をどう説明するのか、原判決の認定は偏見をもつて事実を曲げたというべきものである。

また、冒頭の理由齟齬の項において指摘した原判決の認定とも齟齬するものである。すなわち、九月八日の経緯から反面調査が開始されたという認定と、九月四日には反面調査をしている旨説明したという認定とは、救い難く齟齬しているのである。

(四) 葉書を写した行為の目的についての判断の脱漏

原判決は、

「なお、税務職員は国造の承諾を得て前記葉書を写しているのであるから、これをもつて本件質問検査権の行使が違法であると断定することはできず、その他の本件質問検査権の行使が千葉民商を破壊したり、その会員の団結権を侵害することを目的としてされたものであることを認めるに足りる証拠はない」第一五丁表四行目以下)と認定した。

右葉書は、「千葉民商からの「第五回総会開催について」と題する案内状(であり)、「重税と金融、営業破壊から業者の営業と生活を守るための会議」という文言が記載されていた」(第一三丁表一行目以下)のである。

ところが原判決は、「国造の承諾を得た」(この認定も不服であるが、事実認定固有の問題であるから述べないことにする)というのみであつて、税務調査とは無関係であることの明らかな葉書を写したことにつき全く判断をしていない。

「承諾」の有無と、税務職員の質問検査権行使の目的が奈辺にあつたかという問題とは、論理的関係のない別個のものである。

この点を誤解し、論理的説明を欠落させたまま、前掲のとおり「本件質問検査権の行使が千葉民商を破壊したり、その会員の団結権を侵害することを目的としてされたもりであることを認めるに足りる証拠はない」(第一五丁表六行目以下)と認定した原判決は、理由を附さないものである。

以上が原判決の事実認定部分に関する上告理由であるが、これらの問題点は、原判決の「推計課税の方法によつたことは相当である」(第一六丁五行目)旨の判断にも影響を及ぼし、ひいては判決の結論を左右するものである。

第五むすび

以上詳論したとおり、原判決は、一読すれば極めて粗雑、杜撰な判決である。再読すれば、偏見と誤謬のあまりにも多い欠陥判決である。

真剣に訴訟追行に当つてきた者にとつて、到底承服することのできない判決である。

以上

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